私は、そうしてよかったのだろうか。
なにか、とんでもない間違いをしたように、昨日の夜から考え続けている。
今回の東京行きに、長女もついてきた。
先代と会う予約があるから、あなたも悩んでいることがあるなら聞いてみれば?と言ったら、先代に会うためについてきた。
お寺に行く前に、「ちゃんと自分から相談できる?」と訊いたら、私の話は別にいい、と言った。それなのに、夫への助言の感謝を伝え、先代が夫にいろいろと話してくれている間に、彼女は泣いていた。
そして、私が口火を切ってしまった。
彼女がいま、悩んでいることを。
彼女が勤めている会員制のリゾートホテルを、先代もよくご存じだし、なにか有益なことを助言してくださるのではないか、と思ってしまった。
思えば私はすべてのことを先代に相談しつづけていて、何かあれば先代からの助言を頂いていた。先代の言葉ならきっと長女を救ってくれる、と、思い過ぎていた。
先代は、ぽつりぽつりと話す長女の話と、私の補足説明を聞いた後、言った。
「ちょっと、厳しいことを言うよ。
はっきり言えば、まだ学生のままだ」
と。
プロになっていない、と。
料理もホテルのサービスも同じ。サービスというのは、相手が喜んでくれたことを報酬にしていくもの。あなたは自分を切り売りしている気持ちになっているが、本来のサービスはそういうものではない。
海外では、サービスは料金に入っておらず、チップでもらう。逆にチップを渡さなければ料理さえ持ってきてくれないことだってある。日本の飲食業界にはサービス料は定価の中に含まれている。あなたはその対価を貰っているのだから、「サービス」をしなければならない。
料理を志したのはどうしてだい? 最初のお店では、料理の仕事は面白かったけれど、自分の時間がなくなって辛かった。今は、いろいろと要求されることが多くて辛い。自分を切り売りしているように思っている。
料理の世界は厳しいよ。いまだに徒弟制度が残っている。料理人の立場は低い。昔は料理人はほかの仕事に就けず、食い詰めた人が流れ着いた場所だったんだよ。だからか、いまだに料理人は低く見られている。
料理は暖簾をあげている時間だけが仕事じゃない。同じくらいの時間を仕込みに使う。だから勤めている時間が長くなる。それを続けられるのは、夢を持っているからだ。
あなたは、どんな夢を持っているの?
私には、あなたが転々としたのは、片足を突っ込んでいるだけだからのように見える。
ひとつの世界に入ったとき、少しやって、これは無理、できない。次の世界に入っても、これも無理、できない。できない、できない、になって、少しずつ自信を失っていっている。
入社して8か月の人間に、全部のことはできないよ。出来ないことは、出来る人に引き継げばいい。お客さんには、笑顔で少々お待ちください、と言って、上の人につなげる。サービスの世界では「出来ません」は、言えないんだ。だから、ほかの人につなぐんだ。
客はいろいろ言うだろう。
会員として払っているお金は少なくない。しかも、あなたより長くその施設を使っている。知っていることが多い。
でも、そんなやつに何を言われたって、傷つかなくていい。いろいろ無理難題を言うようなやつは程度が低いんだ。そんなやつの程度に合わせて、傷ついたり怒ったりしているとあなたも程度が低くなってしまう。もっと違う目線で、対応したほうがいい。
フロントにいるときの顔になってごらん? ほら、俺が客だ。
「こんにちは」
・・・肩に力が入りすぎている。笑顔がない。弱い。
弱いやつに、相手はズカズカと入ってくる。付け込む隙があるからだ。
演技だと思えばいい。仮面を被るんだ。仕事が終わったら、その仮面を脱いで自分の時間を持てばいい。俺の知ってるやつも、そうだよ。いつもは頭ボサボサなやつが、仕事に入ると髪を七三にバシッと決めて、しゅっとしている。そういう風に仮面をつけるんだ。
そうだな。もう少し、頑張ってみればいいんじゃないか? 今見えているものと、一年続けた後で見えてくるものは違うだろう。ホテルのフロントでサービスができるようになれば、料理人に戻った時に、もっといい料理人になれるよ。
俺は、そう思うけれどね。
長女は、時々、口をはさんで、ぽつりぽつりと自分の気持ちを話そうとしていた。
けれど、傷つきすぎていて、あまり話せないようだった。
あぁ、厳しいことを言われてるな、長女が一番悩んでいるところを指摘されているな、とドキドキしながら聞いていた。
私にはサービスのことはわからないけれど、何もわからないで右往左往しているときより、一年続けて全体像が見えると感じ方が随分違うのじゃないか、とは感じていたので、
「一年続けてみれば?」
という言葉には賛成したい気持ちだった。
私には言えないことを言ってもらえてよかった、とも、少し、思った。
お寺を辞したあと、長女は友人と会ってくるというので、いったん分かれた。
深夜にウチに帰ってくると言っていたので、鍵を閉めずに私たちは寝ていた。
そして、朝起きてみると、長女はぽろぽろと泣いていた。
「先代の言葉、ショックだった?」
と訊くと、
「ショックだよ」
と言って、また泣いた。
自分でもずっと思っていたことを言われた。でも、私には先代のいうサービスは出来ない。そんな自分じゃダメなんじゃないかって、考えないようにしていたことをまた言われて、もうどうしていいのか、わからない、と、泣いた。
「学生の頃からそうだった。
一つの世界に入ると、そこは苦しい世界で、三年我慢すればいいんだ、といつも思っていた。〇年我慢すれば、違う世界にいける。だから今は我慢するんだって、ずっと思ってきた。
・・・もう、疲れちゃった。どこの世界でも私はダメなんだ。
でも、もう、頑張ろうと思えない、疲れた、考えたくない、人と話したくない・・・」
そういいながら、ぽろぽろと、泣いた。
中学でも、高校でも、いじめられていたようだった。
それでも、そんなことで学校を休んだり辞めたりしたら、そいつらに負けることになるから、頑張ってきた、と、前から言っていた。お前らに私の人生を潰されてたまるか、と頑張ってきたらしい。
中学から。十一年間。・・・そりゃぁ、疲れるよ、と、思った。
先代に相談したのは、間違いだったのだろうか。
長女が言い出さないのに、私が話を振ってしまったのが、悪かったのだろうか。
彼女にはまだ受け止められないことを、言わせてしまったのではなかったのだろうか。
・・・今日は、心が沈んでいる。
私にも、どうすればいいのかがわからない。
今は、長女は夫と一緒に出掛けている。
夫が、私とは違う視点で、長女と話してくれるのを期待している。
どうすれば長女を救えるのかが、私には今、わからない。