虐待サバイバー コマクサの憂鬱

虐待サバイバーの回復への道

教育虐待

父と母は、教育熱心だった。

 

たぶん、最初は、私たちの引っ越しが契機だったのだと思う。

千葉から茨城に引っ越した私たちは、

茨城での最初の授業に驚いた。

千葉ですでに習ったところだったのだ。

学習の進行速度がちょっと違ったのだと思う。

 

一度習ったところだから、すぐに理解できる。

テストも一度やったテストだから、

満点に近い点数が取れた。

それはあくまでも、

「一度解いたことがあるから」

だったのだけれど、

両親はそこで少し、誤解をしたのではないか、と思う。

 

兄は、小学六年生での引っ越しだったからタイミングも悪く、

その地域ではたった一つの私立中学を受験させられた。

学校終わりに電車に乗って、塾に通わされていた。

兄は、ホームで食べる駅そばが美味しかった、と言っていた。

 

期待されていたのに、結局、兄は受験には失敗し、

地元の誰もが通う中学校に進学した。

 

けれど、両親の兄への期待は変わらず、

テストの点数が悪いと、正座させられて、

お説教をされていた。

それも、結構、長い間だった。

 

父には、自分の感情をコントロールできないところがあった。

兄を十分叱りつけて、兄からも謝罪と反省の言葉を引き出し、

一旦、

 

「じゃぁ、そういうことだからな。

次は頑張るように」

 

と、話を締めるのに、

階下の食卓でお酒を呑んでいるうちに怒りが再燃して、

足音も高く二階の兄の部屋に向かい、

またはじめから同じことを責め、同じ謝罪をさせた。

それは、父が酒に酔って寝付くまで、何度でも繰り返された。

 

兄は辛かっただろうと思うし、

ダンダンダン!と、足を踏み鳴らしながら

二階に上がってくる父は、私にも恐怖だった。

 

 

そして、兄は、中学でも高校でも、

せっかく入部した部活動を、

テストの成績が(親が思っていたより)悪かったから、

という理由で、強制的に退部させられていた。

中学の時は、テニス部。

高校の時は、バドミントン部。

 

兄がそのことで荒れることはなかったけれど、

私は隣で見ていて、可哀そうだなぁ、と思っていた。

好きな部活ぐらい、やらせてあげればいいのに。

好きなことを全部取り上げてたら、

勉強に向かう気力も無くなるのではないか、

と思っていた。

 

私の心配は半ばあたり、

高校に入って最初の頃、兄は、

腹痛を訴えて学校を休むことが多くなった。

 

長く伸ばした髪と、

無気力そうな表情の兄が、そこにいた。

 

 

その後、漫画研究会に入り、

友達も増え、兄はまた元気を取り戻していったけれど、

一時期は、何も面白くはないという表情で、

部屋に籠っている時期があった。

 

 

・・・私は、兄のようにはなるまい、と思った。

兄がテストの点数の悪さを責められている声を聞きながら、

机に向かって勉強し、いい点数を取るようにした。

兄が部活を強制的に辞めさせられたのと同じように、

私にも「部活を辞めろ」と言い出した父に、

家出覚悟で反抗した。

兄が先に道を歩いていたから、私は親に反抗することもできた。

それに加えて、やはり両親は「長男」の兄ほどは、

私には期待をしていなかったのだと思う。

それを私は、のちに激痛を伴って思い知ることになる。

 

#虐待 #教育虐待 #ネグレクト #心理的虐待